ことしから私の生まれ故郷の山形新聞夕刊の大型コラム「直言」の執筆陣に加わることになりました。第一回目が2月3日の夕刊に掲載されました。まだ実物は手元に届いておりませんが、原稿を掲載します。
私は現役の日本経済新聞記者時代から「会社の寿命」をライフワークにしてきました。会社の寿命30年説は、私が副編集長として誌面づくりに携わっていた「日経ビジネス」が明治時代から昭和50年代半ばまでの約100年にわたり上位100社の売上と利益の推移を分析して割り出したものです。
誤解のないように言えば会社は30年で寿命が尽きるということではない。繁栄する期間が30年という意味である。
私が出合った経営者の中で、密かに畏敬の念を持っているのが、本田宗一郎さんと二人三脚で本田技研工業を「世界のホンダに育て上げた元副社長の藤沢武夫さんです。
藤沢さんの口癖は「どうしたらホンダは万物流転の掟(この世に生を受けたものは必ず滅びるという意味)から逃れられるか」だった。そして研究所の分離・独立、役員の大部屋制など数々の手をうった。この考えは今なお現役の経営陣に受け継がれています。
日本は企業社会である。会社の業績が上らなければ、給料も上がらず、雇用も安定しないので、消費は盛り上がらない。国も税収が増えなければ、赤字国債に頼らざるを得ない。今のペースで発行し続ければ、1400兆円の個人金融資産を食いつぶすのは時間の問題でしょう。
「失われた10年」どころか20年にわたる日本経済の低迷を見るにつけ、仮に国家に寿命があるとすれば、今日本はどの辺りにいるのか。そんな矢先に米マサチュウセッツ工科大学のキンドルバーバー教授が著した「経済大国興亡史 1500-1900 上下」(岩波書店刊)に遭遇した。
教授は国際経済学、比較経済史の大家である。執筆の動機は、繁栄を極めた経済大国が、なぜ衰退を歩むのかを解明することにある。人間の一生に似て、国家にも生命力あふれる成長の時代もあれば、老化する時代もあることを前提に、500年にわたる世界経済の歴史を振り返りながら国家のライフサイクルというより、国家の寿命を描こうとしたのである。
私は香港が返還される前から中国の動きに注目し、毎年現地に来その発展ぶりを自分の目で確かめている。ことしは正月明けに自動車の輸出基地として脚光を浴びているタイまで足を延ばした。
機内では食事の時間も惜しんで、無さぶるように興亡史を読んだ。読み進むにつれ、目から鱗が落ちる気がした。国家の栄光盛衰の原因について、大家は次のように述べている。
「国民が裕福になり強力になると、悪徳に染まり、将来の備えを怠るようになる。逆に国が貧困になり窮乏すると、国民は賢明になり勤勉になる」
この下りは戦後の日本経済と二重写しである。1979年にハーバード大学のエズラー・ボーゲル教授は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を出版して世界を驚かせた。確かに日本経済は投機によって資産価値が上昇し、世界知の高所得国になった。だがバブルはしょせん泡でしかない。日本経済はバブルガはじけた途端、一気に衰退の道を歩み始めた。
今回は会社の寿命、国家の寿命の視点からタイと中国を見て回ったが、私の目を映ったのは日本の中小企業の逞しさである。単なる生き残り策ではなく、さらなる成長を求め国に頼らず自己責任で製造業を中心にタイに約1万社、中国に3万社が進出している。日本の製造業は66万車だから6%の企業が両国に進出していることになる。
ホンダに限らず中小企業といえども、時代に合った経営をすれば、万物流転の掟逃れることが分かった。
中国に滞在している間にGNP(国内総生産)で中国に抜けれ、帰国してみると日本のの国債の格付けガ引き下げられるというニュースに接した。国家の衰退に歯止めをかけるには政治の出番だが、民主党政権の現状の体たらくを見ると何とも心もとない。
これが全文です。私が付けた仮タイトルは「会社の寿命 国家の寿命」でしたが、山形新聞の整理部が付けた主見出しは「日本の中小企業に逞しさ」サブ見出しが「成長求めタイ、中国進出」でした。私も新聞社にいたのでわかりますが、タイトルを付ける権限は整理部にあります。整理部は読者に一番分かりやすく、一番読んでほしいも見出しを考えます。山形は中小企業が多ため、今回のような見出しになったものと思われます。
私は今回のような新聞や雑誌への寄稿は無論のこと、長編のノンフィクションを書く際、必ず書く前に必ず仮のタイトルを考えます。文章の展開にブレを生じさせないためです。
このブログを書き終えたときに、ちょうど山形新聞の掲載紙が届きました。同じ郵便受けに「トヨタ ストラテジー」のインドネシア語版が入っておりました。「トヨタ ストラテジー」は最初に英語版を出し、その後で日本語版を出しました。さらに昨年夏に中国語版が出ました。インドネシア語版は「ホンダ神話」もありますが、いかんせんインドネシア語には疎いので、翻訳者を信頼するしかありません。