私はなぜノンフィクション作品にこだわるのか
―新聞記者、ジャーナリスト、ノンフィクション作家の狭間で―
◆ 動機
私がノンフィクション作品を書くキッカケは、2007年春に不幸にして交通事故で亡くなったディビット・ハルバースタムさんとの出会いである。
臨場感を持たせるため第一人称を使わずに過去の出来事を再現させるニュージャーナリズムの手法は、1960年代から70年にかけて米国で花開いた。ケネディ政権がベトナム戦争の泥沼にひきずり込まれていく様子を描き切った「ベスト&ブライテスト」の著者でもあるハルバースタムさんはニュージャーナリズムの旗手とされる。
私がトヨタとGMの提携を特報してから一年を経た1983年の春、米ウォール街で最も鋭い自動車評論家として知られる旧知のマリアン・ケラーさんから、「ハルバースタムさんが日米の自動車をテーマにしたノンフィクション作品を書くので、彼が日本に行った時に日本の自動車産業についてレクチャーして欲しい」と頼まれた。
ハルバースタムさんには丸一日かけて日本の日本の自動車産業の過去と将来展望を話し、私の知っている自動車関係者を紹介した。彼は別れ際、私にこう助言してくれた。
「あなたがトヨタとGMの提携をスクープしたことは、ケラー女史から聞いています。その舞台裏には必ず人間ドラマがあるはずです。その動きを中心にまとめてみたらどうですか」
まさにその通りで、舞台裏の人間関係を正確に把握していていたからこそ、スクープすることができた。ただ当時はまだ現役の新聞記者ということもあり、それを本にまとめる時間的な余裕がなかった。舞台裏の人間関係があまりにも生々しいので、多少時間が必要だった事も事実である。それから10年が過ぎ、私の立場も第一線の新聞記者から管理職を経て再び編集委員という書き手に就き、比較的時間ができたので、ハルバースタムさんの助言を実行に移すことになった。
◆ 大宅賞
トヨタ・GM提携の舞台裏を知り尽くしているだけに、400字詰原稿用紙700枚余りを半年余りで書き上げ、1992年末にほぼ推敲も終わった。タイトルはすんなり「巨人たちの握手」に決まり、1993年5月に出版というスケジュールも決まった。その矢先、大宅壮一ノンフィクション賞を主催している日本文学振興会の関係者から、「大宅賞の選考は4月に行われます。本が出来るのを待っていたら今年の選考には間に合いません。前例はありませんが、もし原稿が出来上がっているのならゲラの段階で選考させてもらえませんか」との提案を受けた。年明けから始まった第一次選考会を突破し、幸運にも最終候補作品に残った。
私はこの作品には自信を持っていた。だが結果は受賞には至らなかった。後で漏れ伝わってきたのは、ある選考委員が「新聞記者ならあの程度のことを書いて当然。大宅賞に相応しいかどうかは、次の作品を見てからにしたい」ということだった。
その時は内心、「選考委員は新聞記者とジャーナリストと作家の違いが分かっていない」と思ったものの、その一方で「そういう指摘があるなら、次の作品で要件を満たした作品を書いてみせる」と、新たな意欲が湧いてきた。
◆ 新聞記者とジャーナリストと作家の違い
新聞記者とジャーナリストと作家は、文章を書く職業という点では同じだが、本質的に大きな違いがある。新聞記者は事実をありのままに客観的に、しかもできるだけ分かりやすく、しかも簡潔に書くことが求められる。野球でいえばすべてストライクを意識してボールを投げる。
その点、ジャーナリストはボール臭いストライクを投げることが許される。つまり自分に意見を前面に押し出して、事実を分析しても構わない。それが出来ない人は、優秀なジャーナリストにはなれない。新聞記者の中にはジャーナリストの素質がある人もいるが、ジャーナリストが新聞記者である必要はない。新聞記者が全員ジャーナリストになったら新聞記事は成り立たない。
これが作家になるとまるで違う。作家はストライクとかボールに囚われる必要はない。自分の個性が出るならビーンボールだって平気で投げる。当然のことながら個性を殺そうとするモノ書きが作家になれるわけがない。
「巨人たちの握手」は私が新聞記者として経験したことを、ジャーナリストの目で書いたノンフィクション作品である。ニュース報道とノンフィクション作品は事件などの発見・伝達という同じ指向性を担っている。違いがあるとすれば、ニュースは紙面の関係から事実関係と意義を簡潔に報じなければならない宿命を負っている。
極端な言い方をすれば、新聞は見出しと前分が勝負である。その点、ノンフィクションは著者が独自の見立てをしてストーリーを作り、ニュース報道では見落としがちな周辺の動きを交え、読者に代わって背景説明から歴史的な位置づけまでしてやることに意義がある。むろん見立てが間違えば、ストーリーがちぐはぐになり、ピンボケの作品になってしまう。
トヨタとGMの提携をを例にとれば、新聞の前分を「日米産業協力の形でトヨタが念願の対米進出を果たすことは、米政府から“劇的な措置”を迫られている日米間の緊張緩和のため有力な材料になることは間違いない」と結んだ。
ノンフィクション作品としての「巨人たちの握手」は、テーマを提携交渉に絞り、当時トヨタが置かれていた厳しい状況、トヨタがどんな歴史を持った会社で、提携相手が戦前・戦後を通じて難度か提携交渉したフォードではなく、なぜGMなのか。工販合併を決め慌ただしいトヨタ社内の動きと、トヨタ提携に賛否渦巻くGMの動向。さらには両社の駆け引きなどを織り込みながら新聞報道とは別の角度から真実を描いたつもりである。
二作目の「ホンダ神話」は新聞記者が長年取材してきたことをノンフィクション作家の目で、自分の考えを全面に押し出して書いた作品である。ホンダに関する本は優に100冊を越すが、ホンダ神話は極めてユニークだと思っている。というのは私の見立てを前面に出したからである。具体的には本の章立て見出しを見ていただければ十分である。「二人羽織」「抱き合い心中」「凡庸の団結」「「ドンの重し」「万物流転の法則」「ヘッドハンティング」「戦争を知らない子供質」「逆転の経営会議」「合従連衡の狭間で」「語り継げても受け継げない経営」。
私はこの作品で大宅賞を受賞した。仮に第一作の「巨人たちの握手」で受賞していたら、それに満足して次の作品を書くことはなかったであろう。その意味で今では「次の作品を見てみたい」という選考委員の先生に感謝している。
◆ フィクションとノンフィクション
「ホンダ神話」の後も何作か書いてきたが、書くたびごとにノンフィクションの面白さが分かってきた。ノンフィクション作品は一言でいえば、取り上げる題材を通じて歴史を再現してみせることである。
先ごろ亡くなった斯界の大御所、城山三郎さんと数年前に懇談する機会に恵まれ、そのことを話したところ城山さんから次のような答えが返ってきた。
「歴史を再現して見せる点ではフィクションもノンフィクションも同じです。しかしフィクション作品であれば、自分の考えを前面に出して書くことができます。佐藤さんもわれわれの世界(フィクション)に来ませんか」と誘われたことがある。
若い時代に同人誌で拙い小説を書いていたことがあるだけに、魅力的な誘いだった。ただ私の書いているノンフィクション作品は実在の、しかも現役で活躍している人が多いので、フィクションにするには逆に無理がある。まだノンフィクションとして書かなければならないテーマがあるので、城山さんからの誘いは先に延ばすことにした。
作品を書くに当たっては当然のことですが、すべて全力投球です。一つだけ心掛けていることがあるとすれば、すべての作品について、多くの人に読んでもらうため、メディアミックスを心掛けているいることです。具体的には連載(雑誌、新聞)→単行本→文庫本→英語版→Web→映像化(テレビ、映画、ビデオ、DVD)→音声化です。