師走に入り表参道のケヤキ並木のイルミネーションも点灯しました。昨日は花の金曜日ということもあり、消灯時間の9時過ぎまで人、人でごったがえしていました。確かに青山から原宿にかけてのイルミネーションは一見の価値があります。
現在、「体験的 企業解体新書」を執筆しています。これは新聞記者時代から今日まで、私が体験した取材を基に企業の栄枯盛衰を書くことが狙いです。日本電電公社(現在のNTT)、NEC、三菱自動車、パナソニックはすでに書き上げ、今、日産に取り掛かろうとしています。そこで数日前から資料を読み込んでいます。
12月3日は私にとって屈辱に日です。日産とドイツのVWの提携を毎日新聞に抜かれた日だからです。今からちょうど30年前です。新聞記者にとって抜いた抜かれたは宿命ですが、私が屈辱の日と言うのは、数日後、ことうあろうことか、私が在職した日本経済新聞の夕刊に、「大型提携、青い目走らす」という大きな写真が載った囲み記事が掲載されたからです。記者会見が終わり、当時の石原社長の前で数人の青い目の記者が雑談している光景ですの写真です。ところがその横で、黒のサングラスをかけ、白いストライプの入った黒い背広を着こんで憮然とした表情ん腕組みをしている男がい他のです。どうみても新聞記者と言うより、場違いのマヒィアのスタイルです。
実はこの男が私です。むろん記者会見に黒いサングラスをかけて行ったわけではなく、写真部が私がかけていたメガネのレンズを黒く塗りつぶしたのです。当時、私は自動車グループのキャップでしたが、半年前にトヨタとフォードの提携交渉のニュースをNHKに抜かれ、落ち込んでいました。それに追い打ちをかけたのが、日産とVWの提携だったのです。その日の夜から私の友人から冷やかしの電話が殺到しました。それだけでな恥ずかしくて編集局を歩けませんでした。
当時の日産は、花火のように海外プロジェクトをポンポン打ち上げていました.VWとの提携もその一環でした。後追い記事を書いたものの、日産にとっての位置づけが分からず、後日会長の川又さんに聞きに行ったところ、「あれは石原君のお遊びだよ」という一言で、救われたような気がしました。
その日産が昨日、電気自動車の「リーフ」を発表しました。「会社の寿命は30年」という説を唱えたのは、私の第2に古巣ともいうべき日経ビジネスです。日産がなぜ衰退し、奇跡的な復活を遂げたのか。日産の項ではそこに焦点を当ててまとめたいと思っております。